日蓮宗大本山!大田区にある広大な寺院・池上本門寺
約7万坪にも及ぶ寺院「池上本門寺」を訪れました。隣接する公園と併せて、充実の時間を過ごすことができました。今回はその時の様子をお伝えします。
池上本門寺ってどんなところ?
池上本門寺は、鎌倉時代に起こった仏教宗派のひとつ日蓮宗(法華宗)の開祖である日蓮上人の入滅の地に創建された寺院です。
1222年に安房国(現在の千葉県鴨川市)で生まれた日蓮は、12歳の頃から故郷の清澄寺で経典を学び、16歳で出家。その後は比叡山や高野山で修学を積み、法華経こそが釈迦の教えであると確信します。そして法華経の題目である「南妙法蓮華経」を唱えることで救われるという説法を各地で行い、1253年に安房に戻り、清澄寺でこのお題目を唱え、日蓮宗を開きました。
同じ年の1253年、日蓮は幕府のある鎌倉に移り、布教を始めます。身分や性別を問わず、すべての人々が成仏できるという教えは庶民にも人気となりますが、その一方で、幕府や他宗への批判を繰り返したことで危険視され、数回にわたって逮捕され、流罪の刑に処せられます。
1274年に赦免された日蓮は、信者の招きで山梨県の身延山に入り、以降、門下以外の人と会うことなくその地で過ごします。1277年ごろから体調を崩し始め、死期がせまった1282年に門下たちのすすめで茨城県への湯治旅を行います。その途中、鎌倉滞在時に門下になっていた武士・池上宗仲の屋敷に身を寄せますが、これ以上旅を続けることができなくなり、この池上の地で入滅します。
日蓮入滅後、池上宗仲は、法華経の文字数に合わせた69,384坪の土地を寄進し、日蓮の弟子である日朗が主体となり、池上本門寺が建立されました。
以降、池上本願寺は、日蓮宗の大本山としてこの地に鎮座し、中世は各地の武将から、江戸時代には将軍家や諸大名の尊崇を集めます。
幕末には西郷隆盛と勝海舟の会見がたびたび開かれ、さらに1876年の大政奉還の舞台ともなりました。
1945年4月15日の空襲では、五重塔、宝塔、総門などの一部を残してほとんどが焼失する大きな被害を受けますが、その後多くの建物が再建され、現在に至ります。
基本情報
【アクセス】
東急池上線「池上駅」から徒歩10分
【営業時間】
参拝自由
【地図】
【住所】
東京都大田区池上1-1-1
池上本門寺と、その周辺の見どころ
スタートは東急池上線池上駅北口。
本門寺通りを抜けていきます。徒歩10分ほど。
境内への入口となる総門。江戸城の外桜田門などと同じ高麗門形式の門です。元禄年間に建てられ、空襲をまぬがれた貴重な建築です。
池上本門寺の表参道の石段坂「此経難持坂」。慶長年間に加藤清正が寄進して作らせたものと言われています。偈文(ぶもん)という法華経の詩句の頭文字の数と同じ96段になっています。
此経難持坂を登ると、右手には日蓮聖人の説法像があります。1983年、日蓮の700回忌に建設されたアルミニウム製の像です。威厳のあるお姿。
仁王門。1945年の空襲での焼失後、1977年に再建されました。もともとアントニオ猪木をモデルに作られた仁王像が安置されていましたが、こちらは本殿に移され、現在は2001年に作られたものが置かれています。
仁王門をくぐり、正面に見えてくる巨大な建築が、日蓮を祀る大堂です。1945年の空襲で焼失し、1964年に再建されました。鉄筋コンクリート製で、屋根は入母屋造りと呼ばれる形式を用いています。
霊宝殿。所蔵されている霊宝が毎週日曜日に展示されます。
経蔵(経典を収める建物)。1784年に建立され、空襲をまぬがれた建物のうちのひとつです。
仁王門の右手に見えるのが高さ31.8mの五重塔です。1608年に建立され、空襲をまぬがれた建物のひとつです。1910年には、基礎部分の石段から銅を含む新種のコケが発見され、ホンモンジゴケと名づけられたそうです。重要文化財に指定されています。
さらに奥にある門を進むと、本殿が見えてきます。1945年の空襲で焼失した釈迦堂を再建したもので、1969年に完成。鉄筋コンクリート造りです。
本殿の奥には日蓮聖人の御廟所。
大堂と本殿の間の道を西へと進んでいくと、大坊坂と呼ばれる階段があります。その途中に現れる印象的な建物が多宝塔です。1830年、日蓮聖人の遠忌550年の前年に、遺体を荼毘に付したといわれる場所に建立された宝塔です。宝塔とは、円筒形の塔身を有する一重の仏塔のことで、木造の宝塔は極めて珍しく、その中でもこちらの多宝塔は国内最大の規模を持つ大変貴重な建築のようです。重要文化財に指定されています。
さらにその奥にある寺院が大坊本行寺です。日蓮が入滅前に宿泊していた邸(大坊)を池上宗仲が寄進して建立されました。
本行寺を訪れた後で散策した本門寺公園については別記事で紹介します!